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2020年3月23日 (月)

30年前の今日のことなど

 春は残酷な季節だと言った詩人がいたような気がする。うらうらと射す春の日光は、本当に人を狂わせる。あの日ぼくは、富士スピードウェイの1コーナー脇の土手に車を止めてフェンスごしに来ては去っていくF3000マシンを眺めていた。風が強くて皮のジャンパーをはおっていても寒かったけれど、日差しはひさしぶりに感じる初春のそれだった。

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 さすがに体が冷えてきたので、車のシートに戻ってBコーナーへと移動した。Bコーナーのカメラマンスタンドの脇に車を乗入れて、コーナーを立ち上がって来るマシンと正面から向かい合う。コーナーをやりすごすために回転を落としていたエンジンが、ストレートへ向けて猛然とうなりを上げるポイントである。

 高回転で回るエンジンの音は、不思議と眠気を誘う。取材のためにノートとペンを携えてコーナーに座っていると、つい眠りにおちて手に持った物を取り落とすことがある。土手にしゃがみこんでいたらそのまま眠りこんで、斜面から体ごところげ落ちたこともある。

 あの日も、フロントウィンドウ越しに繰り返しぼくの前を通り過ぎていく排気音を聞いているうちに、えもいわれぬ眠気が襲ってきた。車の窓からは懐かしい春の太陽が射し込む。耳に聞こえる音と体に感じる感触が何もかもやさしくて、まるで子供の頃に帰ったような気持ちだった。

 夏の夕立が迫って、黒ずみ始めた空を眺めるのが好きだ。子供の頃、遊び回っているうちに空が暗くなると、妙に不安な気持ちになって、早く帰らなきゃ、と慌てたものだ。あの頃には帰る場所があった。走って自分の家にたどりついてしまえば誰かがぼくを守ってくれた。人に守られる快感を忘れて久しいように思う。今のぼくには、帰る場所はない。自分のことは自分が守らなければならないのだ。

 春の日差しが人間を狂わせるのは、こうして普段自分を守るために知らず知らずのうちに戦い続けているぼくたちの気持ちをふと解き放して、人の心を生まれたままの状態に戻してしまうからなのだろう。柔らかい日光と大好きな音に包まれて車の中で眠りこんだぼくの姿は、無防備ながらも幸福に充ちたものだったはずだ。

 その小一時間前、やはり春の光に溢れていたドライバーズサロンの前で村松栄紀に会っていた。シルビアに乗ってぼくの前を通り過ぎた彼は、車を止めて降りると、「ほんとうにいい天気ですねえ」と声をかけてきた。「汗ばむくらいだね」とぼくは返した。「今日の走りは、鈴鹿のときみたいにキビキビしてないなあ」とぼくが続けると、彼は「調子、悪いですねえ」と微妙な表情を浮かべた。

 あっさり「調子悪い」と認めてしまった彼にぼくは若干たじろいだ。彼は現場で会えばいつだって強気の言葉を並べてぼくを喜ばせてくれたのだ。サロン前の駐車場、ちょうどヘアピンから100Rの方角を臨む土手の上に立って、ぼくたちは話をした。彼は遠くを眺めるような目をしながら、「これほどいい天気だと、こんなところにいるのがイヤになっちゃいますね」と微笑んだ。

 本当にそうだ。だから、ぼくはそのあと一人で1コーナーに行き、Bコーナーで眠り、そしてさっさと富士スピードウェイを後にしたんだ。だけど、こんなところにいるのがイヤになっちゃったからと言って、ほんの1日のうちに、なにも二度と会えない程遠くへ行ってしまうことはないだろう。

 翌日、すなわち30年前の今日、急を知らせる電話を受けて慌てて富士へ駆けつけたが、もう村松に会うことはできなかった。前の日と同じ、春の陽気があたりには充ちていたけれども、もうぼくには暑いのだか寒いのだかもわからなかった。

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