石垣島で幸福と不幸を思ったのだの巻
不幸というものは他者との比較から生まれると言うが、改めてそれを思った。先日石垣島をふらつく道中で、捨て猫を保護しながら猫のギャラリー&雑貨販売「にゃんこのしっぽ」を営む栗原さんのお店=自宅へうかがったときのこと。
栗原さんが自宅&庭&猫舎で面倒を見ている35匹に及ぶ保護猫の多くは病院での治療を必要とする個体である。栗原さんはまさに格闘するように彼らを養っている。その中にケンタロウがいた。ケンタロウは猫エイズを患っているばかりか癲癇も抱え、さらには脳障害の影響か重い自傷癖も持っていて、まともな歩行もできない。どうやら排泄も決まった場所ではできないようだ。
彼の左後ろ足は自傷で噛みちぎられる寸前だったそうで、今でも露出したままだと噛んで傷つけるので栗原さんは包帯のケースでプロテクターを作りカラーを付けて保護している。「いろいろ試したけど、これが今のところ一番いい」のだとか。言ってはナニだが、無責任なペット愛好者ならば捨てたくもなるだろうと思える状態である。このぼくですら、彼がよたよた歩くのは見ていて辛くなった。
ところが栗原さんは「猫本人は自分を不幸だなどと思っていないから平気で暮らしているんです」と笑いながら甲斐甲斐しく世話をする。それを聞いてぼくは何かショックを受けた。
猫に限らず保護とか介護とかの過程では意識の中にどうしても「比較」が混じり込む。「比較」があるから自分の中に不幸を生み出したり他人に不幸を押しつけたりする。たとえば「ああ、わたしは不幸だ」と思うのはおしなべて幸福な他者をうらやむからだ。一方、「ああ、あの人はわたしよりも不幸だ」と思うのは不幸な他者を自分の下に置いて哀れむからなのだ。この比較は無意識のうちになされるから始末が悪い。
ケンタロウを見て心の中で「かわいそうだ」と思うこと自体は許されるかもしれない。でも「ケンタロウはつらい」と思うのはケンタロウに不幸を押しつけ、幸福な自分あるいは自分の飼い猫とは異なる世界の生き物だと区別した結果である。ケンタロウ自身はそんなことはみじんも思っていないからだ。
では「ケンタロウの世話をする栗原さんは大変だ」と他者が思うのはどうなのか。難しい問題である。少なくとも栗原さん本人は苦労はしていても「つらい」とは思っていないように見えた。
ケンタロウの保護は、幸福と不幸の区別をしている限りはできないだろう。栗原さんは少なくとも区別はせずにケンタロウと接している。もし区別したら、ケンタロウを不幸な猫、異質な猫と分類して捨ててしまった無責任な輩と意識のレベルはさほど変わらないことになってしまうからなのだろう。
だとしたら、ケンタロウを区別してしまいそうだったこのぼくに、捨て猫するアンポンタンを罵る権利があるのかどうか怪しくなる。ペット飼育はカワイイカワイイでは済まないことはわかっているが、突き詰めて考えたときそもそもぼくにペットを飼育する資格があるのかどうか。いやいや、ことはペットの飼育には限らない。自分は幸福なのか不幸なのか、ではあの人は幸福なのか不幸なのか。そんなことを考えること自体、いったいどうなのか。
この手のテーマで自分を追い込むのは余り良いことではないような気もするが、気軽に寄ったはずだった「にゃんこのしっぽ」で、なんだか大変な課題を背負い込むことになった。答は容易には出てこないだろう。でもその間も栗原さんと猫たちは暮らし続けている。
もし石垣島へ行く機会のある猫好きがいたら、寄付しろとは言わないけれども、ぜひ「にゃんこのしっぽ」へ寄っていただきたい。今は猫の世話で忙しくてなかなか制作ができないと栗原さんは言っていたけれど、栗原さんの描く実物大トールペイントはなかなかの作品だと思う。栗原さんは保護猫を治療するためのクラウドファンディングも立ち上げるので、要チェック、ということで。
にゃんこのしっぽ:https://myaaa-ishigakijima.jimdo.com/
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