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2016年6月18日 (土)

13年前の原稿

今日、今はモータースポーツフォトグラファーとして活躍する男が愛娘を連れてわざわざぼくの誕生日を祝いに来てくれた。彼は学生時代にぼくの書いた原稿を読んだが、その内容が今になってよくわかると言い出した。で、探してみた。確かに2003年11月20日のタイムスタンプがある原稿がサーバーの中に見つかった。ライター冥利に尽きる話ではあるが、何か責任も感じて思いは複雑だ。

時の流れはF1よりも速し。

 10月16日に全日本GT選手権シリーズ最終戦が終わり、今年もようやくわたしのシーズンオフがやってきた。全日本選手権以外のカテゴリーでは依然としていくつかレースが残っているし、そのうち各種テストも始まって、結局サーキット通いは続くのだが、気分的には一区切りがついた。
 毎年この時期になると思うけれども、それにしても1年というのはなんと短い時間であることか。特に今年は、年初に身体を壊して秋まで不調だったりしたせいで感慨もひとしおだ。不思議なもので、人間という生き物は、苦しんでいる最中には時間を長く感じるのに、その苦しさを通り抜けると、苦しかった期間を逆に短く感じるようになるようだ。苦痛を忘れるために備わった、ある種の防衛本能みたいなものなのかもしれない。
 同様に興味深いのが、子供の頃の1年とオヤジになってからの1年の長さが違って感じられることだ。若い頃のわたしは、1年あれば何でもできると思っていた。しかも時間は無限に残されており、未来は自由になると勘違いしていた。わたしの予定では、わたしは医者か小説家かロボットあるいはロケット技師か詩人か建築家か漫画家になるはずだった。そういえば、わたしの知り合いは、宇宙飛行士になろうと思っていたらさすがになれなかったけれど医者になり、気象予報士になってレースをしている。なんだか偉い。
 それはともかく、わたしの場合はあれこれ夢を描きあれこれ思っていたけれども、思うばかりで実際にはだらだらしているうちに時間はさっさと流れ去り、結局何もせず何にもなれないままオヤジとなった今はサーキットをウロつく日々を過ごしながら、「待てよ、時間には限りがあるぞ」とようやく気づき始めたところだ。
 今のわたしにも、長期的短期的にやりたいことが山ほどある。体力と気力を取り戻して、また昔のように海外のレースを取材したいとも思っているし、じっくり腰を据えて原稿を書いてみたいと思うテーマもある。なんとかへそくりを作り出して、またレースをやりたいとも思う。夢多いという意味では若い頃と同じだが、確実に変わったことがある。時間の流れがとにかく速く、あっという間に流れ何もできないまま1年が、そして2年が過ぎていくことを知っている。なにしろだらだらするヒマもない。だら、としたらもう1年だ。
 まあ、結局何もしないで時間が過ぎていってしまうという現象だけをとらえるならば、わたしは生まれてから今に至るまで、まるでアクティブサスペンションのついたウイリアムズFW14Bのように実に安定した人生を送っており、おめでたいにはおめでたい。だが、どんどん時間が過ぎるだけではなくて自分がそれとともにどんどん年老いていくという焦りは、若いときにはなかったものだ。
 ああ、若いときからこれくらいの焦りがオレ様にもあればもう少しは人様から尊敬されるようなオヤジになれたかもしれないのに、と反省したところでもう遅い。遅いと思う気持ちのやり場に困ったオヤジは、いきおい、若い者に説教をくれることになる。「命短し、恋せよ乙女」、じゃなくって「青年老いやすく、学成り難し」。昔の人は良いことを言う。
 このわたしもオヤジの説教を鬱陶しく思ってきた小僧だったが、この年齢になって初めてオヤジが説教したくなる気持ちがよくわかる。つまらない時間を過ごしてしまったオヤジは、結局何にもなれなかったけれど、後ろを振り向くと若い頃に自分の前にあり、結局自分が見失ってしまった近道が、実はどこに通っていたのかが見えるような気がするものなのだ。そしてその近道の入口を、まだまだ時間がいっぱいあると勘違いしたまま見過ごし通りすぎようとしている若い人間に、実は今、きわどい局面にあるということを教えてやりたくなるものなのだ。
 というわけで、将来国内外のトップカテゴリーで活躍しようと思う若いレーシングドライバーに言っておきたい。おそらく君の周囲にいるオヤジたちは、ひとつ覚えみたいに異口同音「時間を大事にしろ」と説教くれるはずだ。それはそれは鬱陶しいことだろう。だが、オヤジたちの言っていることは本当だ。本当だからみんな同じことを言うのだ。
 何もオヤジの言うことをすべて聞けというわけではないし、もちろん常に時間と闘い自分をストレスにさらせというわけでもない。ただ、通るべき近道の入口は時間と共に流れ、見逃せば行ったきり戻っては来ない。オヤジの説教を、せめて踏み切りの警報音くらいのつもりで気にとめるくらいのことはしてみたらどうか。というのが、今年1年、ヨレヨレになりながらサーキットに通いレースを眺めた感想である。もっとも、これだけ漢字だらけの文章をここまで読み通しただけで、君には見どころがある。

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