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2016年2月19日 (金)

赤頭巾ちゃんとSEALDs

昨年末、眼の手術を受けるために2回に渡って短期入院した際に、時間つぶしと思って庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」の文庫本をベッドに持ち込んだ。「赤頭巾ちゃん気をつけて」は、ぼくが文筆業者になるきっかけをつくった作品で、中学生時代から何度読み返してきたことだろう。ただ、このところはご無沙汰だったので初心を思い出そうと考えていた。

 

 

ところが、久しぶりに読み返すと、改めてあれこれ思うこともあったのだけれど、これまで特にひっかからなかった箇所で妙に考え込むことになった。その箇所は、物語もクライマックスにさしかかって、主人公の薫くんが、救いを求めて銀座を歩き、数寄屋橋で反代々木系の学生活動家が東大お茶の水事件の逮捕学生を支援するためのカンパを募っている前を通り過ぎる場面である。薫くんは活動家の諸君を横目で見ながらこんなことを考える。

 

(以下引用)「彼らはほんとうに自分の頭で自分の胸ですべてを考えつくして決断したのだろうか。誰からの借物でもなく受売りでもない自分の考え、自分だけの考えで動いているのだろうか。いや、そうだとしても彼らはその行動に責任を、何よりも自分自身に対する責任をとれるのだろうか。彼らは、その決断をたんに若気の至りや青春の熱い血の騒ぎや欲求不満の代償として見殺しにすることなく、つまりは一生挫折したり転向したりすることなく背負い続けていけるのだろうか。

 

(中略)         

 

彼らはああやっていかにも若々しく青春を燃焼させその信じるところをやったと信じきって、そして結局は例の「挫折」をして社会の中にとけこみ、そしてそれでもおおわが青春よ若き日よなどといって、その一生を甘さと苦さのうまくまじわったいわくありげなものにして生きるのだ。彼らの果敢な決断と行動、彼らと行動を共にしないすべての若者をすべての人間を非難し虫ケラのように侮辱するその行動の底には、あくまでも若さとか青春の情熱といったものが免罪符のように隠されているのだ。いざとなればいつでもやり直し大目に見てもらい見逃してもらい許してもらえるという免罪符が」(以上引用)

 

薫くん自体は良家の子女であり権威の象徴としての東京大学に入って官僚にでもなろうかどうしようかと悩む優等生である一方、「必要だと思えばいつだってゲバ棒を持って立ち上がる覚悟、政府でも国家権力でもひっくり返してやるという覚悟」を抱え込んだリベラル派でもある。その薫くんがこんなことを考えていたとは気づかなかった。

 

これはまさに今のぼくが「SEALDs」と名乗る若者の集団に対して感じる違和感そのものではないか。ぼくは、先の民主党政権を「売国政権」だとするならば、現自民党政権はかなり深刻な「亡国政権」だと思っていて、ぼくが愛する日本という国を護るためには打倒するにやぶさかではないと考える人間だが、SEALDsはいけない。彼らの言動を見ていると、まさにこの薫くんと同じ感想を抱かざるをえないのだ。

 

ではどうするか。ゲバ棒持つにはぼくは年齢を食い過ぎた。と言って、金も権力も体力もないまま馬齢を重ねてしまった今のぼくには為す術がない。「せいぜい、外野からああだこうだ勝手な論評をして、早々にすっこんでしまえ」と怒鳴られたら、すごすご引っ込まざるをえない塵芥のような立場にあることは重々自覚しているつもりだ。今はただ、歴史は繰り返すのだなあ、と遠い目をしつつ、口に糊するためのささやかな仕事に戻るとするか。

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