2018年2月24日 (土)

石垣島で幸福と不幸を思ったのだの巻

不幸というものは他者との比較から生まれると言うが、改めてそれを思った。先日石垣島をふらつく道中で、捨て猫を保護しながら猫のギャラリー&雑貨販売「にゃんこのしっぽ」を営む栗原さんのお店=自宅へうかがったときのこと。

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栗原さんが自宅&庭&猫舎で面倒を見ている35匹に及ぶ保護猫の多くは病院での治療を必要とする個体である。栗原さんはまさに格闘するように彼らを養っている。その中にケンタロウがいた。ケンタロウは猫エイズを患っているばかりか癲癇も抱え、さらには脳障害の影響か重い自傷癖も持っていて、まともな歩行もできない。どうやら排泄も決まった場所ではできないようだ。

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彼の左後ろ足は自傷で噛みちぎられる寸前だったそうで、今でも露出したままだと噛んで傷つけるので栗原さんは包帯のケースでプロテクターを作りカラーを付けて保護している。「いろいろ試したけど、これが今のところ一番いい」のだとか。言ってはナニだが、無責任なペット愛好者ならば捨てたくもなるだろうと思える状態である。このぼくですら、彼がよたよた歩くのは見ていて辛くなった。

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ところが栗原さんは「猫本人は自分を不幸だなどと思っていないから平気で暮らしているんです」と笑いながら甲斐甲斐しく世話をする。それを聞いてぼくは何かショックを受けた。

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猫に限らず保護とか介護とかの過程では意識の中にどうしても「比較」が混じり込む。「比較」があるから自分の中に不幸を生み出したり他人に不幸を押しつけたりする。たとえば「ああ、わたしは不幸だ」と思うのはおしなべて幸福な他者をうらやむからだ。一方、「ああ、あの人はわたしよりも不幸だ」と思うのは不幸な他者を自分の下に置いて哀れむからなのだ。この比較は無意識のうちになされるから始末が悪い。


ケンタロウを見て心の中で「かわいそうだ」と思うこと自体は許されるかもしれない。でも「ケンタロウはつらい」と思うのはケンタロウに不幸を押しつけ、幸福な自分あるいは自分の飼い猫とは異なる世界の生き物だと区別した結果である。ケンタロウ自身はそんなことはみじんも思っていないからだ。

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では「ケンタロウの世話をする栗原さんは大変だ」と他者が思うのはどうなのか。難しい問題である。少なくとも栗原さん本人は苦労はしていても「つらい」とは思っていないように見えた。

ケンタロウの保護は、幸福と不幸の区別をしている限りはできないだろう。栗原さんは少なくとも区別はせずにケンタロウと接している。もし区別したら、ケンタロウを不幸な猫、異質な猫と分類して捨ててしまった無責任な輩と意識のレベルはさほど変わらないことになってしまうからなのだろう。

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だとしたら、ケンタロウを区別してしまいそうだったこのぼくに、捨て猫するアンポンタンを罵る権利があるのかどうか怪しくなる。ペット飼育はカワイイカワイイでは済まないことはわかっているが、突き詰めて考えたときそもそもぼくにペットを飼育する資格があるのかどうか。いやいや、ことはペットの飼育には限らない。自分は幸福なのか不幸なのか、ではあの人は幸福なのか不幸なのか。そんなことを考えること自体、いったいどうなのか。

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この手のテーマで自分を追い込むのは余り良いことではないような気もするが、気軽に寄ったはずだった「にゃんこのしっぽ」で、なんだか大変な課題を背負い込むことになった。答は容易には出てこないだろう。でもその間も栗原さんと猫たちは暮らし続けている。

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もし石垣島へ行く機会のある猫好きがいたら、寄付しろとは言わないけれども、ぜひ「にゃんこのしっぽ」へ寄っていただきたい。今は猫の世話で忙しくてなかなか制作ができないと栗原さんは言っていたけれど、栗原さんの描く実物大トールペイントはなかなかの作品だと思う。栗原さんは保護猫を治療するためのクラウドファンディングも立ち上げるので、要チェック、ということで。

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にゃんこのしっぽ:https://myaaa-ishigakijima.jimdo.com/

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2018年2月11日 (日)

日劇ラストショウと登戸銀映と白夜の陰獣のことなど

先日、「さよなら日劇ラストショウ」に出かけて朝からラストまでゴジラ映画を3本見た。「シン・ゴジラ」「ゴジラ(1984)」「ゴジラ(1954)」というラインナップだ。映画館でこんなに映画を観たのは本当に久しぶりのことだった。座席に座って、いったいいつ以来だろうとつらつら考えているうち、登戸銀映のことを思い出した。

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ぼくは小学生から中学生までの多感な時期を、小田急線沿線の新興住宅地で神奈川県民として過ごした。小学校時代、夏休みや冬休みなど長い休みの前には学校で休みのしおりや宿題帳など様々なプリントが配布されたが、その中には大抵登戸銀映の割引券が混ざっていた。

登戸銀映は、向ヶ丘遊園の駅前にあった地元の映画館で、いわゆる三番館である。ただの三番館ではない。ぼくの記憶では客席の床が土を固めた土間になっていて、しかも客席の後方には売店が店を開き確か上映中も照明をつけて物品販売をしていた。

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ここではビン入りのミルクコーヒーを飲んだ。登戸銀映でしか見かけないような飲み物だった。なにしろロビーに出る必要はなくて、上映中にちょっと席を立てば振り返ってスクリーンを観ながら買い物ができるのだ。きわめて便利だが実にユルユルな、昭和の田舎の映画館だった。

小学生のぼくはここで、ゴジラをはじめとする東宝特撮映画、大映のガメラ映画、東映の妖怪映画、洋物スリラー映画などを繰り返し観た。そのどれもが記憶に刻まれて残っているから、本当に多感な時期だったんだろう。中でも「白夜の陰獣」はエロシーンもあって妙に印象に残っている。

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小学校で配布するサービス券で入場した小学生にこれほど雑多な映画を見せていたんだから、おおらかな時代ではある。白夜の陰獣のエロシーンにかなりの衝撃を受けて帰宅したぼくは、ラスプーチンというのはいったい何者なんだろう、ロシア帝政っていったい何だろう、といろいろ調べることになるのだから、何が勉強のきっかけになるのかわからない。登戸銀映で吸収した知見が、その後のぼくにどんな影響を及ぼしたのかと考えると若干、怖くもなる。

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検索してみると、登戸銀映はとっくのとうに廃業しているようだ。あの手の三番館に生き残る道はなかったんだろうと思うと切ない。ちなみに「白夜の陰獣」はDVD版が今でも容易に手に入るようだ。観てみたいような観たくないような複雑な気持ちである。

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2017年12月30日 (土)

2017年オレ様的横須賀年末風景

平和島ボートで半日闘い終えて、早めに帰ろうと帰りの京急に乗ったら三崎口行きで、ふと「あ。横須賀港の軍艦は満艦飾になってるのかな」と思いついて、そのまま横須賀へGO。

残念ながら満艦飾はクリスマスイブと大晦日だけらしくて、港はいつも通り静かだったので、せっかくだからと夜の街を徘徊。ジャズバーのライブが聴きたかったんだけど時間がうまく合わず通り過ぎ、結局は久しぶりの「ぎんじ」へ。
 
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ぎんじは、かの太田和彦さんが日本三大湯豆腐の出る店とか言った横須賀の名店ではあるが、日本三大湯豆腐って……。太田和彦さんのこういうものの言い方があまり好きではない。だって、言っちゃなんだけど、たかが湯豆腐だよ? で、湯豆腐半丁、グリーンアスパラ、生ビール、熱燗1本で1500円。年金暮らしの拠りどころだよね。

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で、いつもの信濃は素通り。ここは、戦艦武蔵に一時期搭載されていたという姿見があったり、海上自衛隊や米海軍の関連グッズが飾られていたり、何故か特撮グッズも並んでいたりというカルトな店。なんでも空母信濃の建造に関わったという方の子孫が経営しているとか。ちなみに姉妹店は「居酒屋工廠」だ(笑)。

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問題は、はす向かいの喫茶店。老舗中の老舗なのに、へ、へ、閉店!? 日本の喫茶店文化はもう滅亡寸前である。喫茶店はカフェへ。出版はインターネットへ。我が業界と重ね合わせて悲しい気分になった。

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店の外に掲出してある品書きは亀松。今回はスルー。横須賀中央駅近くにも店があって、そちらは24時間営業のダメダメ人間のたまり場。というか、自由空間(笑)。でも揚げ物が美味しいんだ。ただ、おなかはいっぱいだしなあと、ふと隣に眼をやると、今まで気づかなかったビアバーがある。

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迷ったけれど飛び込んで新規開拓してみた。ビアバーのルビア・エデン。4年前に脱サラしたご主人が開店したという店なんだけど、これは掘り出し物だったな~。店内は奥様のこだわりで、グリム童話をイメージした世界観にまとめられていてかなりいい雰囲気。ステラアルトワ1本にミートナチョス。今度ゆっくり。

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次はぼくの大好きな若松マーケットへ。いまだに横須賀人ですら「大丈夫? あのへん」と恐れる一角だけども、もう時代は違う。出向いたのは、「洛」。京都出身、中国暮らしの長かった元ヘビメタガールズバンドマン(というかバンドウーマン)が1年ほど前に開いた京風スナックというかバーというか、要するによくわかんない店。お友達づきあいさせていただいているがご無沙汰してた。

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ああ、少し眠くなってきたなあとウイスキー2杯。早々においとま。ドブ板を通り抜けてJR横須賀駅まで散歩すると、迷彩服にラジオ姿の米兵たちが街角街角に。この人たちは米兵を監視する米兵なのだな。夜が更けてくると、酔っ払った米兵たちがドブ板あたりで悪さしないように見張りに出てくるわけね。こういう雰囲気を見てると、米軍は北朝鮮と戦争する気はないのだなあと思えてくる。

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ちなみに米兵たちは、チューハイが大好きだ。横須賀にはチューハイバーを標榜する店があちこちにある。ただチューハイって言っても彼らのチューハイは、焼酎をなんだか色とりどりの得体のしれない飲み物で割ったしろものである。

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停泊するいずもの巨体を横目にJR横須賀駅から電車に乗って……結局は家に帰り着く前に近所のバーに転がり込んでしまったのだった。2017年も暮れていきますな。年明けまでに原稿書けって言うのはどこのどいつだ。

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2017年10月 2日 (月)

店内撮影お断り

この店があるのは、関内というか、日ノ出町というか、正確には福富町である。シーズン前こんなに忙しくなる前にフラついているとき出くわしたのがこの店。

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知る人ぞ知る名店だったらしいんだけど、ぼくはまったく知らず、野毛呑み帰りに散歩した福富町の、あのかなりいかがわしい町並みの中で”出くわした”感じだった。

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おっかなびっくり入店。いや、白状すれば店の前で念のためググったんだ。だって周囲の景色の中であまりにも唐突な感じだったし。しかも「オーシャンバー総本店」だよ? で、検索の結果、こりゃ大丈夫そうだなと目星がついたので入店。

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思った以上に魅力的な店だったなあ。客はぼくひとりだったので、あれこれバーテンダーと話をして情報を収集したんだけども。で、ついでに聞いてみた。「ここは店内写真は撮ってはまずいのか」と。

そうしたら「オーナーの意向で、お断りしています」と言う。写真撮影をいやがる店も多いのでそりゃそれで「納得なんだけど「なぜ?」と聞いたら、「ひとりにどうぞ、と許可すると、オレもワタシもになって店中が撮影大会になっちゃうからです」という。

そりゃ店内の空気が大事なオーセンティックバーとしては確かに許せない状況で、撮影禁止なのは当然だ。ウンウンと頷いていたら、「でも、今日はほかにお客様がいいらっしゃらないので、撮影していいですよ」とバーテンダーが付け加えた。

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というわけでお言葉に甘えて撮影してきた。いやあ、もうね、まさにヨコハマのオーセンティックバーだよね。昔は官公庁街の中にあった店だけど、開発が進んでいまや歓楽街、それもちょっと怪しい方向の歓楽街に取り囲まれちゃってしまったけれど、昔を懐かしんで来店する旧いお客様が多数だとか。そういうのもいいよね。

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メニューがいいんだ。敗戦直後、オーナーが創業したときからのもので、内容が”THE YOKOHAMA”だし、その作りもいい。補修しながら何十年もののボードを使っているらしいけど、中にはいまは提供できないモノも含まれているとか。それもいいじゃないの。ひっそり行ってひっそり呑みたい店だよね。


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2016年11月13日 (日)

不思議なこともあるもんだの巻

ゆうべは、ふだん泊まらないホテルに泊まった。若干お高めだが快適なホテルで、なかなか予約が入らないのだが、春先に結構お安く予約できていた。

この週末、水戸は混んでいて、いつものホテルは春先から満室だったのに、なぜかいつも泊まりたいなと思いながら泊まれないうこのホテルには予約が入った。こういう部屋ってワケありだって言うよねえとチェックインしたら、8階の一番端っこの部屋で、確かになんとなくイヤ~な雰囲気を醸し出してる。

でもゆうべのぼくはひどい風邪気味でフラフラで、コンビニご飯を流し込み、水戸駅ビルの薬局で買った風邪薬を飲んで9時には気絶したので、もしお化けが出ていたとしても熟睡していて気づかなかったから、なんだか気の毒をしたかもしれない。

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人気のホテルだけあってベッドの寝心地がとても良くて、闘病には助かった。これがいつも泊まるような木賃宿だったら、風邪はもっと悪化していただろうと思う。まあとにかく今回の風邪はひどかった。

ここ数日、調子がおかしかった。でも現場に入った金曜日の日中には、くしゃみが止まらないくらいの自覚症状しかなかった。今から思えば金曜の夕方、栃木県のツインリンクもてぎの現場に入って2件インタビューをこなしたときにはおかしくなっていたんだと思う。現場は寒かったらしいのに、ぼくはなぜか汗ばんでせっかく持って行ったブルゾンも羽織らず薄着で、編集部員に「それで寒くないのか」と言われたりしていたのだ。

夜、水戸のビジネスホテルにチェックインしたとき、少し体調に異変をおぼえたので迷ったけれど、せっかく久しぶりの水戸駅北口だからなと夜の街に出撃したらすっかり風邪が悪化した。

夜、くしゃみが止まらずのどが痛んでベッドに横になると息がつまって、結局朝までうつらうつら断続的に1時間ほどしか眠れなかった。発熱こそしなかった(と思う)ので不幸中の幸いではあったけど、あんなに辛い思いをしたのは記憶にないくらい久しぶりだった。

おかげで土曜の現場ではボロボロで、必要最小限の取材しかできず、ずっとプレスルームの椅子に座りっきりだった。ホントは駐車場のクルマに戻って横になりたかったんだけど、近年のツインリンクもてぎではメディア駐車場がおそろしく遠くて、気軽にアクセスができなかった。

プレスルームでもくしゃみと鼻水が止まらなくてどうしようかという状態に陥った。「ああ、しまった、鼻水・鼻づまり用のスプレー剤を持ってくれば良かった」と思ったけど、こんな状態になるとは予想もしていなかったし、ないものねだりだよなあとあきらめた。ところが、午後、たまたまカバンを開けたら、カバンの奥に入れた覚えのないスプレー剤が入っているではないか。

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いやもう、自分の目を疑った。不思議なものだなあ。なぜぼくはこの薬をカバンに入れたんだろう。それも、いつ入れたんだろう。無意識のうちに入れたんだなあ。でもなぜ? いつもは絶対にわざわざ持ち歩く薬ではないのに。ときどきこういうことがあるよね。でもホントに助かった。

で、ゆうべのホテルに話は戻るんだが。この週末は水戸が混んでいて連泊ができなかったのでホテルを変わった。たまたま予約が入ったから泊まったけど、経費削減の折からいつもなら泊らない、というか泊まれないホテルだ。もし連泊できていたら、金曜の夜のビジネスホテルに居続けたはず。

そうしたら決して快適とは言えない部屋の寝心地の良くないベッドで、ぼくは苦しい闘病を強いられるところだった。ところが「え、ナニコレ? ワケあり?」とおびえながらチェックインしたホテルが快適で(いや、なんかヘンなのが夜中に現れていたのかもしれないけど)ホントに助かった。これも何か不思議な巡り合わせだよなあ。

なぜかカバンに入っていたスプレー剤といい、なぜか予約ができたホテルといい、この週末はなんか神様と一緒にいたような気がするなあ。世の中、悪いことばかりじゃないね。いろんなことがダメダメで世を拗ね気味ではあるけれど、もう少しガンバレ、と耳元で神様にささやかれたような気分がする。

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2016年11月 8日 (火)

ロマンポルノと、さらば青春

ゆうべ、たまたま小椋佳さんの「さらば青春」が耳に入ってきた。プチブル香る小椋佳さんの音楽はあまり好まなかったぼくではあるが「さらば青春」だけには妙にノスタルジーをかき立てられる。というのも、高校を卒業する冬、つまりは大学受験でいっぱいっぱいになっているはずの時期に、将来を見失ってすべてを放り出し、ぶらりと京都へ遊びに行ったときのことを思い出すからだ。

当時のぼくにとって京都は「反権威」の象徴的な土地だった。だから京都に住もう、そのためには京都の大学へ入学しようと思っていた。今から思えば、なんだか都合のいい位置づけなんだけれど、まあ若気の至りというやつだ。

ただ高校時代に(たぶん)ちょっと頭を患ったせいで卒業時点では到底学力が伴わず、それを自覚していたぼくは行き場をなくして自堕落な生活に陥っていた。確か高校卒業前に、現役で大学に進学することを自分の中であきらめて、将来に対する不安を抱え込んだままフラフラ暮らしていたのだった。それでも「東京じゃねえよ、京都だろ」とうそぶくことは忘れなかったんだが。

で、同級生達が受験勉強の総仕上げにかかっているのを横目に、ぼくは新幹線に乗って京都へ散歩に出かけた。1日目は、きりりと引き締まる空気の中、お寺を巡ってはスケッチをした。2日目には、昔住んでいた枚方へ足を伸ばして、昔の家や周囲の遊び場をスケッチするつもりだった。
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そのとき描いた枚方の景色


ということはどこかで泊まらなければならない。でも高校生のことだ、宿に泊まるほどのお金は持ち合わせてはいなかった。それで1日目の夜は、新京極のお好み焼き屋で日本酒を熱燗で1合呑みながらお好み焼きを食べ、そのまま近くのオールナイト上映をしている映画館に入った。ずいぶんきれいになってしまったけれど、今でもその映画館は健在だ。

番組はというと、オールナイト上映お約束の日活ロマンポルノで、その1本が「卒業5分前」だった。今調べると、正式タイトルは「卒業5分前・群姦(リンチ)」だったようだがその記憶はない。でもその映画のテーマ音楽が、なんとまあ小椋佳さんの「さらば青春」だったことは憶えている。主演は小川亜佐美さん。男子高校に通っていた当時のぼくにとっては、世の中にはこんなに美しくてエロティックな生物が野良で歩いているのかと、珍獣的な憧れの存在だった。

数々の個性的な映像作家、俳優、女優を生み出すことになる日活ロマンポルノもまた、ぼくにとってはある意味「反権威」の象徴だった。権威や世の中の流れに背を向けて京都に遊び、一杯呑んだ後で日活ロマンポルノを観て夜を明かす高校生のオレ格好いいと、まあ要するに、ぼくは思い通りにならない世の中に落ちこぼれかかって拗ねていただけのお子ちゃまだったわけだ。

日活ロマンポルノは、成人映画とくくってしまえばそれまでだけれども、今のAVとはちょっと位置づけが違っていたように感じる。敢えていうならば安保世代やそれに関わった人々に影響を受けた心情シンパ(ぼくがまさにそれだが)の敗走先であって、単純ないわゆる「ピンク映画」とは違って、エロティシズムの裏に独特の主義主張が通っていた(と、思っていた)。

当時の小椋佳さんはレコード大賞作家であり人気シンガーソングライターだった。今から考えればよくもまあ楽曲を「ポルノ映画」に提供したもんだなとは思うけれど、その理由や経緯は知らないまま(今でも知らないけど)、ぼくは勝手にちんけな満足感を覚えたものだ。世の中の秩序の象徴である小椋佳さん(なにしろ東大を出て都市銀行に就職してそこから大メディアの寵児になったわけだから)を引きずり込んだことで、敗者の巣窟であった日活ロマンポルノが、まるで勝者である社会に一矢報いた図式に見えたからだ。なんとも青臭いこじつけだが、若々しくてよろしいような気もする。

とかなんとかいう思い出が、たまたま聞こえてきた「さらば青春」の向こうに浮かんできて、おっさんは懐かしさに包まれたのだった。このたび日活ロマンポルノが甦るらしいのだが、これは見に行かなくちゃいけないかなあ、と思う今日この頃である。

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2016年10月 5日 (水)

万博記念公園に行ったよ

先日、大阪の万博記念公園に行って来た。ぼくはこの場所のリピーターである。万博記念公園というと、例の塔がある場所、と思われがちだが、ぼくの目的は塔の見物ではない。あの公園は、塔抜きでも実は結構興味深い場所なのだ。

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駅からの景色は結構好き

1970年の万国博覧会は、里山だった千里丘陵を強引に造成した敷地に近未来的(って、今が当時の近未来なわけだが)建物を林立させて開催された。博覧会終了後、建物のほとんどは取り壊されたり移築されたりして跡地は万博記念公園となった。

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百葉箱があった。気温26度湿度78%。蒸し暑い。

ちなみに、あの特徴的なオーストラリア館は四日市に移築された。鈴鹿サーキットの仕事ついでに見物に行ったりしたんだけども、一昨年あたりに取り壊されたとか。残念だなあ。それはともかく。

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ヒマワリ畑があった

万博記念公園建設にあたっては、万博のために破壊した土地を自然に帰すことがテーマになって、1972年、流行の盛り土などして造成し直し60万本と言われる樹木が植えられて自然文化園が作られた。万博記念公園の大部分は、この自然文化園である。

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森の一部に自然を観察するための空中回廊がある

この自然文化園が広大でよろしい。130ヘクタールとかいう敷地の半分は芝生を敷き詰めた都市型公園、半分は里山を再現した森林になっている。芝生の方は、幸福な家族たちがいろんな遊び道具を拡げて生活を満喫していればいいんだけど、ひねくれたおっさんには塔の西側に広がる森林地帯がおもしろい。

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空中回廊は森の中を行くよ

というのも、ここは今、自然環境に関する研究の場にもなっているからだ。1972年に着工した自然文化園の完成は2000年の計画で、30年経てば植林も定着する予定だった。ところが30年の間に、様々な種類の植物が繁茂するはずだった森では、一部広葉樹のみが残って他の多くの植物が枯れ、当初期待していた生物多様性に富む環境が成立していないことが明らかになっていったわけだ。

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人工物もいい感じに馴染んでる

そこで自然文化園運営は、生物多様性に富む自立した森の再生へ舵取りすることになった。自立した森林とは何かというと、人間が何か手を入れてメンテナンスしなくても自然環境が成立する森林のことだ。要するに、ぶち壊してしまった環境を、植物や生物が勝手に世代交代して多様な生態系が安定維持される環境へ再生するためには何をどうすればいいのかを改めて研究しましょうということになったのだ。

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空中回廊から見下ろした自然

植物を植えて緑化するというだけでは自然は復活しない。そこで胸を張ってしまってはいわゆるグリーンウォッシングで終わってしまう。そこから一歩踏み込んで、森を自立させようという取り組みは、言うところでは世界初の試みなんだそうだ。中心になっているのは研究者や関係機関、ボランティアが集まった「自立した森再生センター」という団体らしい。この団体のことはよく知らないけども、少なくともその目指すところについてのみ言えば、非常に意義があるし興味深い試みだと思う。

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例の塔が林の向こうに見えるシュールな光景

具体的には森林の中に20箇所あまりの実験区が設けられて、それぞれ林相転換だとか世代交代だとか、テーマを決めて研究・実験が行われている。その、世界初の研究・実験の成果と途中経過を眺め、体感できるという意味で、万博記念公園の自然文化園はとても面白くて好きな場所である。1日歩いていたって飽きない。というか、1日では歩ききれない。いつも、何かのついでに寄るだけなので、今度はじっくりここを目的に出かけたいんだけど、大阪は遠いからなあ。

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これも嫌いじゃないんだよね

ここを散策していると、猛烈に学習意欲が湧いてくる。せっかく山ほど勉強できる大学に通っていたというのに、ぼくときたら朝から晩まで、じゃなくて晩から朝までポンコツ自動車をいじっては乗り回して昼間は寝てばかりいたんだから悔やまれる。いやもちろんそういう経験が下地になって今の生活があることもよくわかっているんだが。ああ、勉強がしたい。随分馬齢を重ねたけれど、ぼくの人生には、まだまだ学ばなくてはいけないことが山ほど残っているんだ。

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2016年8月15日 (月)

戦争するなと言う母親の遺言

ぼくの母親は今93歳。90歳の時に深刻な大動脈瘤解離を起こして救急搬送され8時間にわたる大動脈置換の大手術を受けて、一命を奇跡的に取り留め生還した経歴の持ち主である。ただしそのときの後遺症で今は下半身不随で介護なしには生活できない身体にはなってしまった。


母親がぼくに繰り返す遺言はただひとつ、「戦争は二度とするな」である。実は、ぼくの母親は、先の大戦で召集令状を受け取った数少ない女性の一人である。先日もその手のTV番組があったようだが改めて言うと、召集令状、俗に言う赤紙は若い男性だけが受け取るものではない。実は女性にも送られている。


ぼくの母親は赤十字社の看護婦であったため、病院船の乗組員として召集された。そして母親は大戦の期間、病院船に乗って主に太平洋地域の戦地を巡っては傷病兵を収容し内地へ送り届けるという任務を繰り返し続けた。ちなみに母親はその頃、中国大陸で衛生兵として戦地の地べたを這いずり回っていた父親と知り合い、戦後結婚してぼくを産み育ててくれた。


航海中は病院船とはいえどもいつ雷撃を受けるかわからない覚悟だったという。看護婦にはそれぞれジャックナイフが支給され、就寝するときも身につけて、船が沈没して海に投げ出されたとき、それで鮫と闘えと言われたのだそうだ。ほとんど笑い話だが、そんなことを若い白衣の娘たちを前に真剣に言いつける日本軍の将校が船には乗り組んでいたらしい。バカバカしいにもほどがある話で、こんなバカが幅をきかせていた日本軍は先の大戦に負けるべくして負けた。ぼくは本当にそう思う。


その母親が「戦争は二度とするな」と今でもぼくに言う。船に乗っていた母親自身は悲惨な戦場に直接立ち会ったわけではない。しかし戦場で負傷し運ばれてくる傷病兵は、それはそれは悲惨な状況で、治療が追いつかずモルヒネをバンバン打って大人しくさせて内地へ送還する以外しかたがなかったらしい。

それは確かに悲惨には違いないが、最前線を経験したわけではない母親がなぜ「戦争はするな」とここまでしつこく言うのかと敢えて確かめたことがある。すると、母親は「中国に寄港した際、日本人が中国人を人間扱いしていない様子を見た、それがあまりにもつらかったからだ」と言う。人間が人間を、理由もなく人間扱いしない状況が、母親には人間として耐えられなかったのだ。その状況はいかなるものだったのか。戦後70年も経っているのに母親がぼくにそう言い聞かせるのだからよほどのことだったのだろう。


母親の証言を信じる限り、戦中の日本人が中国人を「虐待」していたのは事実なのだろう。母親が自分の目で見てきたと言うことを否定することはぼくには出来ない。ただ、では国家が加害者として被害を被った相手の国家に謝ったり補償をすれば話は済むのか、というとそうではないとぼくは思っている。ひとりひとりの日本人が、その尋常ではない状況を正しく認識して、その後でそれぞれが対応を真摯に考えて結論を出し対応するしかしかたがない。実はその方が、国家まかせで謝ったり補償をしたりするより、はるかに難しい課題である。「中韓にはもう十分謝ったのだから改めて謝る必要はない」と胸をはる方々が少なくないが、じゃお前自身は何をどれだけ考えたのよ、と確かめてみたくなる。


念のために言っておけば、母親は「人間を人間扱いしない」のは、何も日本人と中国人の関係に留まらず、日本軍の将校や軍医は、他ならぬ日本人の兵卒も人間扱いしていなかった、と言う。つまり、お国のために闘った結果負傷をした兵隊の手足を安易に「面倒だからちょん切れ、あとはモルヒネ打っとけ」で済ませていたようなのだ。戦争というのはそういうものだということだ。それを含めて母親は「あんな偉そうなだけのバカをのさばらせる戦争はしてはいけない」と言っている。


戦争は弱者を打ちのめす。ぼくの父親は兵隊として戦場で這いつくばった挙げ句に、台湾にあったすべての財産を失って茶碗1個だけ持って内地に帰還し、鎌倉でルンペン生活を送るはめに陥った。父親は既にこの世の人ではないが、「天皇陛下にだまされた」と言い続けて死んだ。それはそうだ。若き世代を天皇陛下のために戦場で過ごした挙げ句に、何もかも失い着の身着のままの一文無しになって知らない「本土」に放り出されたのだ。


確かに年金こそ受け取りはした。しかし兵隊である父親を操っていた人々が、土地も財産も地位も生命も国内に温存した挙げ句に、今になって先の大戦を美化しようとまでしているのに比べれば、あまりにもささやかな補償だ。ぼくは、ルンペンの末裔である。ぼくが今のんきに原稿など書いて暮らせるのは、文字通りの無一文から生活を立て直し子供を産み育ててくれた父母のおかげなのだ。ぼくはそんな父母を心から誇る。


ちなみに、ぼくは父親が恨み辛みを語っていたからと言って自分の中に天皇家や天皇制度に対する特別な感情は持っているわけではない。怒りも恨みも感じない。ただし無条件な敬意も感じない。先だってロックシンガーが勲章をズボンの尻ポケットから出したのが不敬だ、反日だといきり立った人々がいたが、その偶像崇拝的指弾が理解できず「ポカーン」とするばかりだった。「天皇陛下に勲章もらったぜ、イェ~イ」と自慢できない社会が、素敵な社会だとは到底思えない。


ぼくは、バカな将校に使われるのは忌避するつもりだが、日本を守るために闘うこと自体はやぶさかではない。それは日本という国を愛しているからだ。ただしここで言う日本とはあくまでもこの国に息づく文化と家族であって、断じてかつて言われていた「国体」ではない。


一方でぼくは「戦争してはいけない」という母親の遺言は守らねばならない。しかし現在の世界の情勢を見聞きする限り、正直なところぼくは現代の我が日本国が「戦争できない国」になってはいけないとは思っている。戦力の完全放棄は迷う必要のない理想ではあるが、現実世界の中にあってそれはあくまでも空想的理想であって、戦争の結果ルンペンになった男の息子には絵空事に聞こえる。


今は、戦争を二度と「しない」ためにも、我が日本国は戦争「できる」国でなければならない、日本という文化や家族を守るためにはイヤでもしかたがないことだ、という結論にたどり着かざるをえない。この考え方が、母親に通じるのかどうかは確かめたことがないんだが。

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2016年6月18日 (土)

13年前の原稿

今日、今はモータースポーツフォトグラファーとして活躍する男が愛娘を連れてわざわざぼくの誕生日を祝いに来てくれた。彼は学生時代にぼくの書いた原稿を読んだが、その内容が今になってよくわかると言い出した。で、探してみた。確かに2003年11月20日のタイムスタンプがある原稿がサーバーの中に見つかった。ライター冥利に尽きる話ではあるが、何か責任も感じて思いは複雑だ。

時の流れはF1よりも速し。

 10月16日に全日本GT選手権シリーズ最終戦が終わり、今年もようやくわたしのシーズンオフがやってきた。全日本選手権以外のカテゴリーでは依然としていくつかレースが残っているし、そのうち各種テストも始まって、結局サーキット通いは続くのだが、気分的には一区切りがついた。
 毎年この時期になると思うけれども、それにしても1年というのはなんと短い時間であることか。特に今年は、年初に身体を壊して秋まで不調だったりしたせいで感慨もひとしおだ。不思議なもので、人間という生き物は、苦しんでいる最中には時間を長く感じるのに、その苦しさを通り抜けると、苦しかった期間を逆に短く感じるようになるようだ。苦痛を忘れるために備わった、ある種の防衛本能みたいなものなのかもしれない。
 同様に興味深いのが、子供の頃の1年とオヤジになってからの1年の長さが違って感じられることだ。若い頃のわたしは、1年あれば何でもできると思っていた。しかも時間は無限に残されており、未来は自由になると勘違いしていた。わたしの予定では、わたしは医者か小説家かロボットあるいはロケット技師か詩人か建築家か漫画家になるはずだった。そういえば、わたしの知り合いは、宇宙飛行士になろうと思っていたらさすがになれなかったけれど医者になり、気象予報士になってレースをしている。なんだか偉い。
 それはともかく、わたしの場合はあれこれ夢を描きあれこれ思っていたけれども、思うばかりで実際にはだらだらしているうちに時間はさっさと流れ去り、結局何もせず何にもなれないままオヤジとなった今はサーキットをウロつく日々を過ごしながら、「待てよ、時間には限りがあるぞ」とようやく気づき始めたところだ。
 今のわたしにも、長期的短期的にやりたいことが山ほどある。体力と気力を取り戻して、また昔のように海外のレースを取材したいとも思っているし、じっくり腰を据えて原稿を書いてみたいと思うテーマもある。なんとかへそくりを作り出して、またレースをやりたいとも思う。夢多いという意味では若い頃と同じだが、確実に変わったことがある。時間の流れがとにかく速く、あっという間に流れ何もできないまま1年が、そして2年が過ぎていくことを知っている。なにしろだらだらするヒマもない。だら、としたらもう1年だ。
 まあ、結局何もしないで時間が過ぎていってしまうという現象だけをとらえるならば、わたしは生まれてから今に至るまで、まるでアクティブサスペンションのついたウイリアムズFW14Bのように実に安定した人生を送っており、おめでたいにはおめでたい。だが、どんどん時間が過ぎるだけではなくて自分がそれとともにどんどん年老いていくという焦りは、若いときにはなかったものだ。
 ああ、若いときからこれくらいの焦りがオレ様にもあればもう少しは人様から尊敬されるようなオヤジになれたかもしれないのに、と反省したところでもう遅い。遅いと思う気持ちのやり場に困ったオヤジは、いきおい、若い者に説教をくれることになる。「命短し、恋せよ乙女」、じゃなくって「青年老いやすく、学成り難し」。昔の人は良いことを言う。
 このわたしもオヤジの説教を鬱陶しく思ってきた小僧だったが、この年齢になって初めてオヤジが説教したくなる気持ちがよくわかる。つまらない時間を過ごしてしまったオヤジは、結局何にもなれなかったけれど、後ろを振り向くと若い頃に自分の前にあり、結局自分が見失ってしまった近道が、実はどこに通っていたのかが見えるような気がするものなのだ。そしてその近道の入口を、まだまだ時間がいっぱいあると勘違いしたまま見過ごし通りすぎようとしている若い人間に、実は今、きわどい局面にあるということを教えてやりたくなるものなのだ。
 というわけで、将来国内外のトップカテゴリーで活躍しようと思う若いレーシングドライバーに言っておきたい。おそらく君の周囲にいるオヤジたちは、ひとつ覚えみたいに異口同音「時間を大事にしろ」と説教くれるはずだ。それはそれは鬱陶しいことだろう。だが、オヤジたちの言っていることは本当だ。本当だからみんな同じことを言うのだ。
 何もオヤジの言うことをすべて聞けというわけではないし、もちろん常に時間と闘い自分をストレスにさらせというわけでもない。ただ、通るべき近道の入口は時間と共に流れ、見逃せば行ったきり戻っては来ない。オヤジの説教を、せめて踏み切りの警報音くらいのつもりで気にとめるくらいのことはしてみたらどうか。というのが、今年1年、ヨレヨレになりながらサーキットに通いレースを眺めた感想である。もっとも、これだけ漢字だらけの文章をここまで読み通しただけで、君には見どころがある。

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2016年4月11日 (月)

うたたとぼくの窮地について

実は昨年末、耳血腫の治療にナマ猫うたたを主治医の動物病院に連れて行ったところ、たまたま深刻な心臓病が見つかった。肥大型心筋症といって、大型ネコにはよく見られる病気らしいが完治させることはできず、そのうち生命にも関わってくるという。この先うたたには、ずっと薬を飲み続けて少しでも病気の進行を防ぐしか道は残されていない。悲しい、と言い切ってしまってはうたたが可哀想だが、厄介な事態になった。

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ぼくはうたたと一緒に病気と闘っていくことにしたけれど、同時に思い切り甘やかすことに決めた。親からはぐれて瀕死の状態で保護された可哀想なネコだ。引き取ったからには余生をできるだけ幸福に過ごさせてやりたい。

だが、わけあって独居状態にあって仕事も生活も破綻状況にあるぼくは、どうしてもうたたを看病してばかりはいられない。年末ころからは、心臓の病気のせいもあるのだろうけれど、うたたは徐々に精神的に不安定になって、ぼくにべたべた甘えたかと思うと、エサを一切食べなくなったりトイレの場所を見失ってしまったり思いもかけないところに隠れて1日中姿を見せなくなったりと異常行動を見せるようになった。

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ぼくは仕事柄、出張がちだけれど出来る限り短く切り上げるようにしてうたたとの生活を続けてきた。しかし今年もシーズンが始まってそれにも限界が出てきた。それと並行してうたたの様子もどんどんおかしくなってきた。エサを食べてくれなくては薬を飲ませることもできない。なんとかエサを食べさせようと様々な工夫をしたが、思うようにならない。2年前、先住ネコのひなたが悪性腫瘍で自力摂食ができなくなったときのことを思い出して切なくなった。

先日、どうしても5日間の出張に出かけなくてはいけなくなって、主治医の動物病院に預けた。出張から帰って引き取りにいったとき、今のぼくの状況をよく知っている旧知の獣医から「しばらく病院で預かった方がいいのではないか」と提案を受けた。獣医は、実は飼い主であるぼくの方が疲れ果てて様子がおかしくなり始めていて、それをうたたが負担に感じて悪循環に陥っているのではないかという。

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手を上げたり大きな声を出して叱ったりなど一切していないしむしろうたたの好き放題にしてきたつもりだったが、ネコは飼い主の緊迫した状況を敏感に感じ取るらしい。思い当たるフシもあるにはあるので、1か月後にまた長期出張があってどちらにしろ預かってもらわなければいけないこともあるから、獣医と相談のうえ、迷いに迷った結果、そのまま引き取らずにしばらく預かってもらうことにした。

先住猫のひなたのときから世話になっている主治医の動物病院は根岸にあって、昨年いっぱいで主治医自身は院長を若い獣医に引き継いで一線を退いてしまったが、うたたに関しては新旧の主治医が2人で親身になって相談を聞きいれ面倒を見てくれる体制をとってくれた。持つべきものは友。ありがたい話だ。

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獣医はぼくに「こうなってしまったことについて、決して自分を責めるな」と言ってくれる。でも、我が家でのんびり暮らすことができなくなったうたたのことを思うと、やはり自分を責めざるをえない。出張先で酔っ払っても、ふと気を許すとうたたに申し訳ない気持ちでいっぱいになって気持ちが解放されることはない。満載の仕事にも当然悪い影響が及ぶ。こんなことをしていては悪循環が断ち切れないことはわかっていても、どうしてもそこに入り込んでしまう。

ぼくにはうたたと一緒に暮らす資格がなくなってしまったのかもしれない。だからといってどうなるものでもない。もし悪魔がぼくとうたたの生活に関わろうとしているのだとしたら、「放っておいてくれ」と叫びたい気分だ。今はとにかく仕事をこなし生活を整理してうたたをもう一度最高の環境で迎え入れられるようにならなくてはいけないのだと自分に言い聞かせている。なんとまあ、思いがけない形で窮地というものはやってくるものなんだろうか。

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