30年前の今日のことなど

 春は残酷な季節だと言った詩人がいたような気がする。うらうらと射す春の日光は、本当に人を狂わせる。あの日ぼくは、富士スピードウェイの1コーナー脇の土手に車を止めてフェンスごしに来ては去っていくF3000マシンを眺めていた。風が強くて皮のジャンパーをはおっていても寒かったけれど、日差しはひさしぶりに感じる初春のそれだった。

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 さすがに体が冷えてきたので、車のシートに戻ってBコーナーへと移動した。Bコーナーのカメラマンスタンドの脇に車を乗入れて、コーナーを立ち上がって来るマシンと正面から向かい合う。コーナーをやりすごすために回転を落としていたエンジンが、ストレートへ向けて猛然とうなりを上げるポイントである。

 高回転で回るエンジンの音は、不思議と眠気を誘う。取材のためにノートとペンを携えてコーナーに座っていると、つい眠りにおちて手に持った物を取り落とすことがある。土手にしゃがみこんでいたらそのまま眠りこんで、斜面から体ごところげ落ちたこともある。

 あの日も、フロントウィンドウ越しに繰り返しぼくの前を通り過ぎていく排気音を聞いているうちに、えもいわれぬ眠気が襲ってきた。車の窓からは懐かしい春の太陽が射し込む。耳に聞こえる音と体に感じる感触が何もかもやさしくて、まるで子供の頃に帰ったような気持ちだった。

 夏の夕立が迫って、黒ずみ始めた空を眺めるのが好きだ。子供の頃、遊び回っているうちに空が暗くなると、妙に不安な気持ちになって、早く帰らなきゃ、と慌てたものだ。あの頃には帰る場所があった。走って自分の家にたどりついてしまえば誰かがぼくを守ってくれた。人に守られる快感を忘れて久しいように思う。今のぼくには、帰る場所はない。自分のことは自分が守らなければならないのだ。

 春の日差しが人間を狂わせるのは、こうして普段自分を守るために知らず知らずのうちに戦い続けているぼくたちの気持ちをふと解き放して、人の心を生まれたままの状態に戻してしまうからなのだろう。柔らかい日光と大好きな音に包まれて車の中で眠りこんだぼくの姿は、無防備ながらも幸福に充ちたものだったはずだ。

 その小一時間前、やはり春の光に溢れていたドライバーズサロンの前で村松栄紀に会っていた。シルビアに乗ってぼくの前を通り過ぎた彼は、車を止めて降りると、「ほんとうにいい天気ですねえ」と声をかけてきた。「汗ばむくらいだね」とぼくは返した。「今日の走りは、鈴鹿のときみたいにキビキビしてないなあ」とぼくが続けると、彼は「調子、悪いですねえ」と微妙な表情を浮かべた。

 あっさり「調子悪い」と認めてしまった彼にぼくは若干たじろいだ。彼は現場で会えばいつだって強気の言葉を並べてぼくを喜ばせてくれたのだ。サロン前の駐車場、ちょうどヘアピンから100Rの方角を臨む土手の上に立って、ぼくたちは話をした。彼は遠くを眺めるような目をしながら、「これほどいい天気だと、こんなところにいるのがイヤになっちゃいますね」と微笑んだ。

 本当にそうだ。だから、ぼくはそのあと一人で1コーナーに行き、Bコーナーで眠り、そしてさっさと富士スピードウェイを後にしたんだ。だけど、こんなところにいるのがイヤになっちゃったからと言って、ほんの1日のうちに、なにも二度と会えない程遠くへ行ってしまうことはないだろう。

 翌日、すなわち30年前の今日、急を知らせる電話を受けて慌てて富士へ駆けつけたが、もう村松に会うことはできなかった。前の日と同じ、春の陽気があたりには充ちていたけれども、もうぼくには暑いのだか寒いのだかもわからなかった。

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2020年3月14日 (土)

科学と新型コロナウイルス

科学は、世の中の物事はすべからく非常に曖昧なのだということを理屈と証拠をもって明瞭に説明する作業だと思っている。ところが、科学をあまりご存じない方々は、科学によってすべての物事が自分の目に見える形で明瞭に説明できるはずだと信じていらっしゃるようだ。

 

このところ連発されている「新型コロナウイルスの感染予防法」を見聞きすると、つくづくそれを思う。この世の中に「感染しないための方法」など存在するものか。あるとすれば、あくまでも「感染の確率を下げるための方法」である。

 

満員電車に乗れば、感染するかもしれないし感染しないかもしれない。少なくとも今回の新型コロナ肺炎については、できるだけ感染の可能性を下げながら、もし感染したらしようがないからこれまでの肺炎同様の治療方法の延長で治そうな、という話だ。ワクチンも”特効薬”も存在しないのは事実だが、治療方法がないわけではないし実際治癒もしているようではないか。

 

ところが科学に疎い方々は「絶対に感染しない方法」はどこにあるのかと追い求め右往左往していらっしゃる。ちょっと待て。これまでオマエはそんなにしょっちゅうインフルエンザをはじめとする感染症に罹患していたのか、ウイルスやら菌やらがウヨウヨいる世間をくぐり抜けてきたのではなかったかと。

 

感染者数が増えるたび多くの方々が怯えるが、ぼくは逆だ。数字を見る限り死亡率がどんどん下がっていくからである。もちろん感染者数も死亡者数も実数はどうなんだよとは思うけれども、多分ぼくの考え方の方に分はある。選挙の出口調査で結果がほぼ推定できるようなものだ。それが統計であり科学である。

 

物質の根幹は原子だが、その原子は絵で描けないしろものだということを思い出せばいい。いや確かに昔は「絵」が存在した。原子核の周囲を、ある軌道に乗った電子が周回しているという例の絵だ。

 

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しかし現在はこうした絵は誤りだとされている。今は、原子核の周囲に電子が存在する確率としてぼんやりとした雲状の”雰囲気”が示されるだけだ。この世のすべてのモノは、かように曖昧なしろものなのだ。

 

目に見えないウイルスから逃げるための絶対的解決策などという幻を追い求めているヒマがあるなら、事態は非常に曖昧であることを認め対策は今自分ができることだけはしてそれ以上は必要以上に怯えず、経済を回すことに心砕いた方がよっぽど我が身のためだと思うのだ。もちろん、自分が感染し病死する確率を織り込んだうえで、の話だが。

 

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2020年1月 7日 (火)

大船秋田屋で不思議な気分になったのだの巻

「あなたの座ってるその椅子ね、いつも寅さんが座ってた席なのよ」と女将が言うので仰天した。以前、地元のスナックでビールが好きな多分70歳超えの婆さんと知り合った。近所の魚屋で働く婆さんは秋田の横手出身だと言う。去年の暮れに店で隣り合ったとき、たまたま大船の話になって、「大船で呑むなら秋田屋へ行け。逗子の魚屋のババアから聞いたと言えば良くしてくれる」と店を紹介してくれた。

ぼくもときどき大船で呑むので、その店の場所は大体わかった。ゆうべ、仕事帰りに大船で電車を降り、気になっていた店で夕食がてらイッパイ呑んで返るとき、その場所の前を通ったので少し迷ったけれども思い切って寄ってみた。
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雑居ビルの2階、いかにもな店構え

大船の盛り場の中でも古めかしい雑居ビルの中に秋田屋はある。魚屋の婆さんが教えてくれなければ踏み込むことはなかっただろうし、ましてやこの店の引き戸を開けることなど考えもしなかったはずだ。

まさに昭和の居酒屋然とした店はカウンターだけの作りで、80歳になるという女将は現役を退いたかカウンターの隅に陣取り、店の切り盛りは娘さんの担当のようだった。女将も秋田出身で、ここで店を始めてもう45年だか46年だか経つのだそうだ。魚屋の婆さんとは同郷同士で仲がいいとか。

早速女将は携帯電話で魚屋の婆さんに連絡をとり、ぼくも婆さんと話した。そのうち、途中で入店してきた客のために席をずらして譲り、ぼくは女将の隣に座ることになった。そうしたら女将が言うのだ。「そこは寅さんの席で、椅子は当時から交換していないので、まさにその椅子に寅さんが座っていた」と。

聞けば、まだ松竹の撮影所が大船にあった頃、フーテンの寅さんの撮影を進める渥美清さんや山田洋次監督が常連だったという。なんでも同じビルの上層に「パルコ」というキャバレーがあって、そこへ出かける前にこの店で勢いをつけていたらしい。

昨日は、都内にある編集部へ出向く前に、蒲田で「特撮のDNA-平成ガメラの衝撃と奇想の大映特撮」、続けて天王洲で「スター・ウォーズ アイデンティティーズ:ザ・エキシビション」と、特撮映画の展覧会をハシゴしたばかりで、夜に「フーテンの寅さん」の話になって、なんだか「映画の日」になったなあと不思議な気分がした。

店にはカラオケが設置されており、隣の客-これもまた婆さんだったのだけれど-が聞いたこともないような歌を熱唱し始めた。今は、居酒屋兼カラオケスナック的な業態となっている模様で、ウンチク系グルメ客には少々厳しい雰囲気だが、ぼくはこの手の店が嫌いではない。
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正統派昭和の居酒屋にカラオケとミラーボールというシュールな光景

すでに一軒目の店で十分呑んでいたのだが、お正月だからと升酒が一杯サービスで差し出されたので後には引けなくなって少々呑みすぎた。さすがに満腹で名物というキリタンポは食べられなかったので次回の楽しみにとっておくことにした。

 

 

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2018年8月15日 (水)

戦争反対という文言について、の巻

「戦争反対」という文言には虫酸が走る。デモ参加者が「戦争ハンタ~イ」とシュプレヒコールを上げるのを聞くと、頭がくらくらするほど腹立たしくなる。

だからと言って戦争を賛美する気はさらさらない。それどころか断固たる非戦論者である。ぼくの父親は天皇陛下を信じて従軍し酷い目に遭った、ある意味戦争被害者である。その息子のぼくは二度と戦争に関わって被害者になるつもりはない。

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ではなぜ「戦争反対」の文言に腹が立つのかと言うと、ぼくは、戦争は「反対」するものではなくて、自分が主体となって「しない」ものだと信じているからだ。「戦争反対」という言い方は、戦争がまるで他人事のように聞こえる。戦争は誰か自分以外のケシカラン輩、敢えていうならば「国家」「国体」が勝手に始めるものだ、ホント~にやめてよね、と聞こえる。

違う。戦争は自分の問題である。自分が「やらない」と決意し行動しなければ戦争は起きる。「ハンタ~イ」と他人任せにして満足して、何をすれば戦争が起きないのかを考え何も成さないでいれば戦争は起きて自分が巻き込まれてしまうのだ。敢えて言うならば「再軍備ハンタ~イ、戦争ハンタ~イ」などと無責任に騒いでいる輩こそが戦争を招くのである。

ぼくは戦争はしない。戦争をしないためには何を成すべきなのか考えて、そして行動する。でもその答が、「戦争ハンタ~イ」などという脳天気な責任転嫁であるとは到底思えない。

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2018年2月24日 (土)

石垣島で幸福と不幸を思ったのだの巻

不幸というものは他者との比較から生まれると言うが、改めてそれを思った。先日石垣島をふらつく道中で、捨て猫を保護しながら猫のギャラリー&雑貨販売「にゃんこのしっぽ」を営む栗原さんのお店=自宅へうかがったときのこと。

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栗原さんが自宅&庭&猫舎で面倒を見ている35匹に及ぶ保護猫の多くは病院での治療を必要とする個体である。栗原さんはまさに格闘するように彼らを養っている。その中にケンタロウがいた。ケンタロウは猫エイズを患っているばかりか癲癇も抱え、さらには脳障害の影響か重い自傷癖も持っていて、まともな歩行もできない。どうやら排泄も決まった場所ではできないようだ。

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彼の左後ろ足は自傷で噛みちぎられる寸前だったそうで、今でも露出したままだと噛んで傷つけるので栗原さんは包帯のケースでプロテクターを作りカラーを付けて保護している。「いろいろ試したけど、これが今のところ一番いい」のだとか。言ってはナニだが、無責任なペット愛好者ならば捨てたくもなるだろうと思える状態である。このぼくですら、彼がよたよた歩くのは見ていて辛くなった。

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ところが栗原さんは「猫本人は自分を不幸だなどと思っていないから平気で暮らしているんです」と笑いながら甲斐甲斐しく世話をする。それを聞いてぼくは何かショックを受けた。

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猫に限らず保護とか介護とかの過程では意識の中にどうしても「比較」が混じり込む。「比較」があるから自分の中に不幸を生み出したり他人に不幸を押しつけたりする。たとえば「ああ、わたしは不幸だ」と思うのはおしなべて幸福な他者をうらやむからだ。一方、「ああ、あの人はわたしよりも不幸だ」と思うのは不幸な他者を自分の下に置いて哀れむからなのだ。この比較は無意識のうちになされるから始末が悪い。


ケンタロウを見て心の中で「かわいそうだ」と思うこと自体は許されるかもしれない。でも「ケンタロウはつらい」と思うのはケンタロウに不幸を押しつけ、幸福な自分あるいは自分の飼い猫とは異なる世界の生き物だと区別した結果である。ケンタロウ自身はそんなことはみじんも思っていないからだ。

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では「ケンタロウの世話をする栗原さんは大変だ」と他者が思うのはどうなのか。難しい問題である。少なくとも栗原さん本人は苦労はしていても「つらい」とは思っていないように見えた。

ケンタロウの保護は、幸福と不幸の区別をしている限りはできないだろう。栗原さんは少なくとも区別はせずにケンタロウと接している。もし区別したら、ケンタロウを不幸な猫、異質な猫と分類して捨ててしまった無責任な輩と意識のレベルはさほど変わらないことになってしまうからなのだろう。

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だとしたら、ケンタロウを区別してしまいそうだったこのぼくに、捨て猫するアンポンタンを罵る権利があるのかどうか怪しくなる。ペット飼育はカワイイカワイイでは済まないことはわかっているが、突き詰めて考えたときそもそもぼくにペットを飼育する資格があるのかどうか。いやいや、ことはペットの飼育には限らない。自分は幸福なのか不幸なのか、ではあの人は幸福なのか不幸なのか。そんなことを考えること自体、いったいどうなのか。

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この手のテーマで自分を追い込むのは余り良いことではないような気もするが、気軽に寄ったはずだった「にゃんこのしっぽ」で、なんだか大変な課題を背負い込むことになった。答は容易には出てこないだろう。でもその間も栗原さんと猫たちは暮らし続けている。

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もし石垣島へ行く機会のある猫好きがいたら、寄付しろとは言わないけれども、ぜひ「にゃんこのしっぽ」へ寄っていただきたい。今は猫の世話で忙しくてなかなか制作ができないと栗原さんは言っていたけれど、栗原さんの描く実物大トールペイントはなかなかの作品だと思う。栗原さんは保護猫を治療するためのクラウドファンディングも立ち上げるので、要チェック、ということで。

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にゃんこのしっぽ:https://myaaa-ishigakijima.jimdo.com/

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2018年2月11日 (日)

日劇ラストショウと登戸銀映と白夜の陰獣のことなど

先日、「さよなら日劇ラストショウ」に出かけて朝からラストまでゴジラ映画を3本見た。「シン・ゴジラ」「ゴジラ(1984)」「ゴジラ(1954)」というラインナップだ。映画館でこんなに映画を観たのは本当に久しぶりのことだった。座席に座って、いったいいつ以来だろうとつらつら考えているうち、登戸銀映のことを思い出した。

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ぼくは小学生から中学生までの多感な時期を、小田急線沿線の新興住宅地で神奈川県民として過ごした。小学校時代、夏休みや冬休みなど長い休みの前には学校で休みのしおりや宿題帳など様々なプリントが配布されたが、その中には大抵登戸銀映の割引券が混ざっていた。

登戸銀映は、向ヶ丘遊園の駅前にあった地元の映画館で、いわゆる三番館である。ただの三番館ではない。ぼくの記憶では客席の床が土を固めた土間になっていて、しかも客席の後方には売店が店を開き確か上映中も照明をつけて物品販売をしていた。

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ここではビン入りのミルクコーヒーを飲んだ。登戸銀映でしか見かけないような飲み物だった。なにしろロビーに出る必要はなくて、上映中にちょっと席を立てば振り返ってスクリーンを観ながら買い物ができるのだ。きわめて便利だが実にユルユルな、昭和の田舎の映画館だった。

小学生のぼくはここで、ゴジラをはじめとする東宝特撮映画、大映のガメラ映画、東映の妖怪映画、洋物スリラー映画などを繰り返し観た。そのどれもが記憶に刻まれて残っているから、本当に多感な時期だったんだろう。中でも「白夜の陰獣」はエロシーンもあって妙に印象に残っている。

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小学校で配布するサービス券で入場した小学生にこれほど雑多な映画を見せていたんだから、おおらかな時代ではある。白夜の陰獣のエロシーンにかなりの衝撃を受けて帰宅したぼくは、ラスプーチンというのはいったい何者なんだろう、ロシア帝政っていったい何だろう、といろいろ調べることになるのだから、何が勉強のきっかけになるのかわからない。登戸銀映で吸収した知見が、その後のぼくにどんな影響を及ぼしたのかと考えると若干、怖くもなる。

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検索してみると、登戸銀映はとっくのとうに廃業しているようだ。あの手の三番館に生き残る道はなかったんだろうと思うと切ない。ちなみに「白夜の陰獣」はDVD版が今でも容易に手に入るようだ。観てみたいような観たくないような複雑な気持ちである。

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2017年12月30日 (土)

2017年オレ様的横須賀年末風景

平和島ボートで半日闘い終えて、早めに帰ろうと帰りの京急に乗ったら三崎口行きで、ふと「あ。横須賀港の軍艦は満艦飾になってるのかな」と思いついて、そのまま横須賀へGO。

残念ながら満艦飾はクリスマスイブと大晦日だけらしくて、港はいつも通り静かだったので、せっかくだからと夜の街を徘徊。ジャズバーのライブが聴きたかったんだけど時間がうまく合わず通り過ぎ、結局は久しぶりの「ぎんじ」へ。
 
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ぎんじは、かの太田和彦さんが日本三大湯豆腐の出る店とか言った横須賀の名店ではあるが、日本三大湯豆腐って……。太田和彦さんのこういうものの言い方があまり好きではない。だって、言っちゃなんだけど、たかが湯豆腐だよ? で、湯豆腐半丁、グリーンアスパラ、生ビール、熱燗1本で1500円。年金暮らしの拠りどころだよね。

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で、いつもの信濃は素通り。ここは、戦艦武蔵に一時期搭載されていたという姿見があったり、海上自衛隊や米海軍の関連グッズが飾られていたり、何故か特撮グッズも並んでいたりというカルトな店。なんでも空母信濃の建造に関わったという方の子孫が経営しているとか。ちなみに姉妹店は「居酒屋工廠」だ(笑)。

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問題は、はす向かいの喫茶店。老舗中の老舗なのに、へ、へ、閉店!? 日本の喫茶店文化はもう滅亡寸前である。喫茶店はカフェへ。出版はインターネットへ。我が業界と重ね合わせて悲しい気分になった。

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店の外に掲出してある品書きは亀松。今回はスルー。横須賀中央駅近くにも店があって、そちらは24時間営業のダメダメ人間のたまり場。というか、自由空間(笑)。でも揚げ物が美味しいんだ。ただ、おなかはいっぱいだしなあと、ふと隣に眼をやると、今まで気づかなかったビアバーがある。

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迷ったけれど飛び込んで新規開拓してみた。ビアバーのルビア・エデン。4年前に脱サラしたご主人が開店したという店なんだけど、これは掘り出し物だったな~。店内は奥様のこだわりで、グリム童話をイメージした世界観にまとめられていてかなりいい雰囲気。ステラアルトワ1本にミートナチョス。今度ゆっくり。

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次はぼくの大好きな若松マーケットへ。いまだに横須賀人ですら「大丈夫? あのへん」と恐れる一角だけども、もう時代は違う。出向いたのは、「洛」。京都出身、中国暮らしの長かった元ヘビメタガールズバンドマン(というかバンドウーマン)が1年ほど前に開いた京風スナックというかバーというか、要するによくわかんない店。お友達づきあいさせていただいているがご無沙汰してた。

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ああ、少し眠くなってきたなあとウイスキー2杯。早々においとま。ドブ板を通り抜けてJR横須賀駅まで散歩すると、迷彩服にラジオ姿の米兵たちが街角街角に。この人たちは米兵を監視する米兵なのだな。夜が更けてくると、酔っ払った米兵たちがドブ板あたりで悪さしないように見張りに出てくるわけね。こういう雰囲気を見てると、米軍は北朝鮮と戦争する気はないのだなあと思えてくる。

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ちなみに米兵たちは、チューハイが大好きだ。横須賀にはチューハイバーを標榜する店があちこちにある。ただチューハイって言っても彼らのチューハイは、焼酎をなんだか色とりどりの得体のしれない飲み物で割ったしろものである。

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停泊するいずもの巨体を横目にJR横須賀駅から電車に乗って……結局は家に帰り着く前に近所のバーに転がり込んでしまったのだった。2017年も暮れていきますな。年明けまでに原稿書けって言うのはどこのどいつだ。

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2017年10月 2日 (月)

店内撮影お断り

この店があるのは、関内というか、日ノ出町というか、正確には福富町である。シーズン前こんなに忙しくなる前にフラついているとき出くわしたのがこの店。

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知る人ぞ知る名店だったらしいんだけど、ぼくはまったく知らず、野毛呑み帰りに散歩した福富町の、あのかなりいかがわしい町並みの中で”出くわした”感じだった。

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おっかなびっくり入店。いや、白状すれば店の前で念のためググったんだ。だって周囲の景色の中であまりにも唐突な感じだったし。しかも「オーシャンバー総本店」だよ? で、検索の結果、こりゃ大丈夫そうだなと目星がついたので入店。

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思った以上に魅力的な店だったなあ。客はぼくひとりだったので、あれこれバーテンダーと話をして情報を収集したんだけども。で、ついでに聞いてみた。「ここは店内写真は撮ってはまずいのか」と。

そうしたら「オーナーの意向で、お断りしています」と言う。写真撮影をいやがる店も多いのでそりゃそれで「納得なんだけど「なぜ?」と聞いたら、「ひとりにどうぞ、と許可すると、オレもワタシもになって店中が撮影大会になっちゃうからです」という。

そりゃ店内の空気が大事なオーセンティックバーとしては確かに許せない状況で、撮影禁止なのは当然だ。ウンウンと頷いていたら、「でも、今日はほかにお客様がいいらっしゃらないので、撮影していいですよ」とバーテンダーが付け加えた。

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というわけでお言葉に甘えて撮影してきた。いやあ、もうね、まさにヨコハマのオーセンティックバーだよね。昔は官公庁街の中にあった店だけど、開発が進んでいまや歓楽街、それもちょっと怪しい方向の歓楽街に取り囲まれちゃってしまったけれど、昔を懐かしんで来店する旧いお客様が多数だとか。そういうのもいいよね。

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メニューがいいんだ。敗戦直後、オーナーが創業したときからのもので、内容が”THE YOKOHAMA”だし、その作りもいい。補修しながら何十年もののボードを使っているらしいけど、中にはいまは提供できないモノも含まれているとか。それもいいじゃないの。ひっそり行ってひっそり呑みたい店だよね。


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2016年11月13日 (日)

不思議なこともあるもんだの巻

ゆうべは、ふだん泊まらないホテルに泊まった。若干お高めだが快適なホテルで、なかなか予約が入らないのだが、春先に結構お安く予約できていた。

この週末、水戸は混んでいて、いつものホテルは春先から満室だったのに、なぜかいつも泊まりたいなと思いながら泊まれないうこのホテルには予約が入った。こういう部屋ってワケありだって言うよねえとチェックインしたら、8階の一番端っこの部屋で、確かになんとなくイヤ~な雰囲気を醸し出してる。

でもゆうべのぼくはひどい風邪気味でフラフラで、コンビニご飯を流し込み、水戸駅ビルの薬局で買った風邪薬を飲んで9時には気絶したので、もしお化けが出ていたとしても熟睡していて気づかなかったから、なんだか気の毒をしたかもしれない。

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人気のホテルだけあってベッドの寝心地がとても良くて、闘病には助かった。これがいつも泊まるような木賃宿だったら、風邪はもっと悪化していただろうと思う。まあとにかく今回の風邪はひどかった。

ここ数日、調子がおかしかった。でも現場に入った金曜日の日中には、くしゃみが止まらないくらいの自覚症状しかなかった。今から思えば金曜の夕方、栃木県のツインリンクもてぎの現場に入って2件インタビューをこなしたときにはおかしくなっていたんだと思う。現場は寒かったらしいのに、ぼくはなぜか汗ばんでせっかく持って行ったブルゾンも羽織らず薄着で、編集部員に「それで寒くないのか」と言われたりしていたのだ。

夜、水戸のビジネスホテルにチェックインしたとき、少し体調に異変をおぼえたので迷ったけれど、せっかく久しぶりの水戸駅北口だからなと夜の街に出撃したらすっかり風邪が悪化した。

夜、くしゃみが止まらずのどが痛んでベッドに横になると息がつまって、結局朝までうつらうつら断続的に1時間ほどしか眠れなかった。発熱こそしなかった(と思う)ので不幸中の幸いではあったけど、あんなに辛い思いをしたのは記憶にないくらい久しぶりだった。

おかげで土曜の現場ではボロボロで、必要最小限の取材しかできず、ずっとプレスルームの椅子に座りっきりだった。ホントは駐車場のクルマに戻って横になりたかったんだけど、近年のツインリンクもてぎではメディア駐車場がおそろしく遠くて、気軽にアクセスができなかった。

プレスルームでもくしゃみと鼻水が止まらなくてどうしようかという状態に陥った。「ああ、しまった、鼻水・鼻づまり用のスプレー剤を持ってくれば良かった」と思ったけど、こんな状態になるとは予想もしていなかったし、ないものねだりだよなあとあきらめた。ところが、午後、たまたまカバンを開けたら、カバンの奥に入れた覚えのないスプレー剤が入っているではないか。

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いやもう、自分の目を疑った。不思議なものだなあ。なぜぼくはこの薬をカバンに入れたんだろう。それも、いつ入れたんだろう。無意識のうちに入れたんだなあ。でもなぜ? いつもは絶対にわざわざ持ち歩く薬ではないのに。ときどきこういうことがあるよね。でもホントに助かった。

で、ゆうべのホテルに話は戻るんだが。この週末は水戸が混んでいて連泊ができなかったのでホテルを変わった。たまたま予約が入ったから泊まったけど、経費削減の折からいつもなら泊らない、というか泊まれないホテルだ。もし連泊できていたら、金曜の夜のビジネスホテルに居続けたはず。

そうしたら決して快適とは言えない部屋の寝心地の良くないベッドで、ぼくは苦しい闘病を強いられるところだった。ところが「え、ナニコレ? ワケあり?」とおびえながらチェックインしたホテルが快適で(いや、なんかヘンなのが夜中に現れていたのかもしれないけど)ホントに助かった。これも何か不思議な巡り合わせだよなあ。

なぜかカバンに入っていたスプレー剤といい、なぜか予約ができたホテルといい、この週末はなんか神様と一緒にいたような気がするなあ。世の中、悪いことばかりじゃないね。いろんなことがダメダメで世を拗ね気味ではあるけれど、もう少しガンバレ、と耳元で神様にささやかれたような気分がする。

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2016年11月 8日 (火)

ロマンポルノと、さらば青春

ゆうべ、たまたま小椋佳さんの「さらば青春」が耳に入ってきた。プチブル香る小椋佳さんの音楽はあまり好まなかったぼくではあるが「さらば青春」だけには妙にノスタルジーをかき立てられる。というのも、高校を卒業する冬、つまりは大学受験でいっぱいっぱいになっているはずの時期に、将来を見失ってすべてを放り出し、ぶらりと京都へ遊びに行ったときのことを思い出すからだ。

当時のぼくにとって京都は「反権威」の象徴的な土地だった。だから京都に住もう、そのためには京都の大学へ入学しようと思っていた。今から思えば、なんだか都合のいい位置づけなんだけれど、まあ若気の至りというやつだ。

ただ高校時代に(たぶん)ちょっと頭を患ったせいで卒業時点では到底学力が伴わず、それを自覚していたぼくは行き場をなくして自堕落な生活に陥っていた。確か高校卒業前に、現役で大学に進学することを自分の中であきらめて、将来に対する不安を抱え込んだままフラフラ暮らしていたのだった。それでも「東京じゃねえよ、京都だろ」とうそぶくことは忘れなかったんだが。

で、同級生達が受験勉強の総仕上げにかかっているのを横目に、ぼくは新幹線に乗って京都へ散歩に出かけた。1日目は、きりりと引き締まる空気の中、お寺を巡ってはスケッチをした。2日目には、昔住んでいた枚方へ足を伸ばして、昔の家や周囲の遊び場をスケッチするつもりだった。
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そのとき描いた枚方の景色


ということはどこかで泊まらなければならない。でも高校生のことだ、宿に泊まるほどのお金は持ち合わせてはいなかった。それで1日目の夜は、新京極のお好み焼き屋で日本酒を熱燗で1合呑みながらお好み焼きを食べ、そのまま近くのオールナイト上映をしている映画館に入った。ずいぶんきれいになってしまったけれど、今でもその映画館は健在だ。

番組はというと、オールナイト上映お約束の日活ロマンポルノで、その1本が「卒業5分前」だった。今調べると、正式タイトルは「卒業5分前・群姦(リンチ)」だったようだがその記憶はない。でもその映画のテーマ音楽が、なんとまあ小椋佳さんの「さらば青春」だったことは憶えている。主演は小川亜佐美さん。男子高校に通っていた当時のぼくにとっては、世の中にはこんなに美しくてエロティックな生物が野良で歩いているのかと、珍獣的な憧れの存在だった。

数々の個性的な映像作家、俳優、女優を生み出すことになる日活ロマンポルノもまた、ぼくにとってはある意味「反権威」の象徴だった。権威や世の中の流れに背を向けて京都に遊び、一杯呑んだ後で日活ロマンポルノを観て夜を明かす高校生のオレ格好いいと、まあ要するに、ぼくは思い通りにならない世の中に落ちこぼれかかって拗ねていただけのお子ちゃまだったわけだ。

日活ロマンポルノは、成人映画とくくってしまえばそれまでだけれども、今のAVとはちょっと位置づけが違っていたように感じる。敢えていうならば安保世代やそれに関わった人々に影響を受けた心情シンパ(ぼくがまさにそれだが)の敗走先であって、単純ないわゆる「ピンク映画」とは違って、エロティシズムの裏に独特の主義主張が通っていた(と、思っていた)。

当時の小椋佳さんはレコード大賞作家であり人気シンガーソングライターだった。今から考えればよくもまあ楽曲を「ポルノ映画」に提供したもんだなとは思うけれど、その理由や経緯は知らないまま(今でも知らないけど)、ぼくは勝手にちんけな満足感を覚えたものだ。世の中の秩序の象徴である小椋佳さん(なにしろ東大を出て都市銀行に就職してそこから大メディアの寵児になったわけだから)を引きずり込んだことで、敗者の巣窟であった日活ロマンポルノが、まるで勝者である社会に一矢報いた図式に見えたからだ。なんとも青臭いこじつけだが、若々しくてよろしいような気もする。

とかなんとかいう思い出が、たまたま聞こえてきた「さらば青春」の向こうに浮かんできて、おっさんは懐かしさに包まれたのだった。このたび日活ロマンポルノが甦るらしいのだが、これは見に行かなくちゃいけないかなあ、と思う今日この頃である。

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